musicfreaks.jpの活動をご支援頂けましたら幸いです。ひとつひとつのご支援が大きな励みとなります。どうか、よろしくお願いいたします。
☆------------------------------------------------☆
Netflixで配信が始まった「俺のこと、なんか言ってた」を第1話だけ見た。
役所広司さんの演技は、さすがというほかない。
気がつけば画面を見続けてしまうし、本人だけが知っている現実から突然切り離されてしまった人間の戸惑いや苛立ち、不安が、かなり生々しく伝わってくる。
しかし私は、第1話を見終える頃には続きを見ることをやめようと思っていた。
今回は作品そのものを批評したいわけではない。
むしろ、なぜ私はこの作品にこれほど強く引っかかったのか。
そこを考えていくうちに、自分自身が創作するときに大切にしているものが、あらためて見えてきた。
面白い設定なのに、なぜ気持ちが離れていったのか
有名俳優が海外にいる間、日本国内で起きた出来事によって、国民全員が彼のことを忘れてしまう。
本人は自分が誰なのか分かっている。
しかし、家族も知人も仕事関係者も彼を知らない。
アイデンティティを社会との関係によって成立させていた人間が、その関係だけを突然奪われる。
題材としては非常に面白い。
実力と知名度は同じものではない。
これは俳優に限らず、音楽家でも、画家でも、作家でも同じだ。
社会的な評価をすべて失ったとき、その人自身には何が残るのか。
第1話の段階でマズローの欲求階層まで登場するため、作品が「承認」や「自己実現」を扱おうとしていることも想像できた。
ところが私は、それ以前のところで何度も立ち止まってしまった。
日本には戸籍も住民票もある。
パスポートも、婚姻記録も、所属事務所との契約も、銀行口座も、納税記録もあるだろう。
警察に連れて行かれたのであれば、公的記録を確認し、自宅まで同行してもらえば、少なくとも「この人物が誰なのか」という問題の多くは解決できる。
もちろんフィクションなので、大きな嘘があっても構わない。
「国民全員が一人の人物を忘れた」
私はそこまでは受け入れられる。
しかし、その設定を成立させるために、周囲の人間まで不自然に判断力を失ってしまうと、別の違和感が生まれる。
物語上の嘘と、人物の不自然な行動は少し違う。
その違いが、私にはどうしても気になってしまった。
役所広司さんが上手すぎるから、見えてしまったもの
不思議なのは、それでも第1話を最後まで見てしまったことだ。
理由は単純で、役所広司さんが圧倒的にうまいからだと思う。
もし主人公の苦痛がもっと記号的に演じられていたら、
「設定が合わないな」
程度で、もっと早く視聴をやめていただろう。
ところが役所さんが、本当に自分だけが世界から切り離されたように演じる。
だからこそ、脚本上の仕掛けとして処理できないものまで見えてしまった。
それが「疎外」の感覚だった。
そして、しばらく考えていて気づいた。
私が感じていたものは、単なる孤独ではない。
もっと「集団いじめ」に近い。
「自分だけが間違っている」とされる世界
集団によるいじめの怖さは、単に誰かから嫌われることではない。
集団全体によって、
「お前がおかしい」
「そんな事実は存在しない」
という現実を作られてしまうところにある。
本人が何を訴えても、周囲が同じ反応を返せば、やがて自分自身の認識まで揺さぶられる。
このドラマでも、主人公は自分が誰であるかを知っている。
しかし周囲のすべての人間が、その事実を否定する。
妻まで自分を知らない。
社会全体から「あなたはあなたではない」と言われ続ける。
この構造を、私は笑うことができなかった。
そこで、一つの言葉が浮かんだ。
「笑われる側の背景まで想像する」
創作では、この想像力がとても大切なのではないかと思う。
「これくらいならいい」が積み重なる怖さ
私は、表現に制限を設けるべきだと言いたいわけではない。
ブラックユーモアもあっていい。
残酷な物語もあっていい。
人を傷つける題材を扱ってはいけないとも思わない。
むしろ強い表現ほど、創作には必要だと思っている。
ただし、自分が何を扱っているのかについては知っておきたい。
その設定の向こう側には、どんな人がいるのか。
誰が笑う側にいて、誰が笑われる側にいるのか。
自分が反対側の立場だったとしても、その表現を選べるだろうか。
そこまで考えた結果として選ぶのと、
「これくらいならいいだろう」
で選ぶのでは、まったく違う。
創作における怖さは、一度の大きな判断よりも、小さな「まあいいか」が積み重なることにあるのかもしれない。
設定はこれくらいでいい。
人物の動機もこれくらいでいい。
観客はそこまで考えないだろう。
役者がうまければ成立するだろう。
一つ一つは小さな妥協だ。
しかし、それが積み重なれば作品全体の姿勢になる。
これは、自分自身への戒めでもある。
中心線を外すと、すべてに波及する
私は音楽を作るときも、ブログを書くときも、
「なぜそうするのか」
ということをなるべく考えるようにしている。
なぜこの楽器なのか。
なぜここで音数を減らすのか。
なぜこの声なのか。
なぜこの言葉を使うのか。
聴く人にとっては、そんなことはどうでもいい部分かもしれない。
気づかれないことの方が多い。
それでも、作り手がそこで考えたかどうかは、最終的には作品全体に現れると思っている。
一つの音の処理に対する態度と、作品全体に対する態度は、本当はそれほど離れていない。
だから私は、自分の中に一本の中心線を持っていたい。
技術的な正解ではない。
売れるための方法でもない。
物事の背景を知ろうとすること。
そして、
自分とは違う側にいる人間を想像すること。
その線から外れた小さな判断は、やがて別の部分にも波及する。
創作とは、案外そういうものなのではないかと思う。
良い作品とは、好きになった作品だけではない
結局、私はこのドラマの第2話を見ることをやめた。
だからこれは作品全体についてのレビューではない。
第1話を見ただけの、一人の視聴者の感想にすぎない。
しかし考えてみれば、この作品から得たものは少なくなかった。
作品を見て、
「自分ならこうする」
と思った。
さらに、
「なぜ自分はそう思うのだろう」
と考えた。
そして、
「自分は創作するとき、何を大切にしているのだろう」
というところまで戻ってきた。
好きな作品だけが、自分に何かを教えてくれるわけではない。
強烈な違和感を覚えた作品もまた、自分自身を映す鏡になる。
今回あらためて確認できたのは、
笑われる側の背景まで想像すること。
そして、
物事の背景を知ろうとする姿勢を、些細なところでも手放さないこと。
だった。
優れた俳優の演技に引き込まれたからこそ、そこまで考えることができた。
そういう意味では、私にとってこの作品は、決して「何も残らなかった作品」ではない。
続きを見ることはないかもしれない。
それでも、自分が作品を作るときにどこへ立つのかを確認させてくれた。
そう考えると、これはこれで良い作品との出会い方だったのかもしれない。