なぜ人は「物語」に動かされるのか――朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』を読んで

  • 2026年10月25日
  • 2026年10月25日
  • 読書

PayPal で支援する

musicfreaks.jpの活動をご支援頂けましたら幸いです。ひとつひとつのご支援が大きな励みとなります。どうか、よろしくお願いいたします。


Amzonタイムセール☆今すぐチェック!

☆------------------------------------------------☆

 

朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』を読みました。

読み始める前は、いわゆる「推し活」やファンダムを題材にした小説なのだろうと思っていました。

もちろん、それは間違ってはいません。

しかし読み終えてみると、私が最も面白いと感じたのは、推し活そのものではありませんでした。

この小説が描いているのは、もっと広い意味での、

「人はなぜ“物語”を与えられると、自分から動き始めるのか」

という問題ではないかと思います。

そしてこれは、音楽を作り、作品を発表し、それをどう人に届けるかを日常的に考えている私にとっても、とても興味深いテーマでした。

商品ではなく「物語」を売る

『イン・ザ・メガチャーチ』の中で、特に面白かったのがストーリーマーケティングの描写です。

単純な広告であれば、

「この商品は優れています」

「このアイドルには魅力があります」

と、その対象そのものを宣伝します。

ところが、もう一段強いマーケティングになると、商品そのものではなく、その周囲にある「物語」を提示します。

たとえば、

「まだ知られていない才能を、あなたが見つけた」

「今応援すれば、この人の未来を変えられる」

「私たちの力で、この人をもっと大きな舞台へ連れていこう」

こうなると、ファンは単なる消費者ではありません。

物語の登場人物になります。

CDを買う。

動画を見る。

SNSで紹介する。

投票する。

友人に薦める。

一つひとつの行為が単なる消費ではなく、

「この物語を前へ進めるための行動」

に変換されていきます。

ここが実に巧妙です。

人は「騙された」から動くわけではない

こうした構造を見ると、

「マーケティングに操られている」

と考えたくなります。

しかし『イン・ザ・メガチャーチ』の面白さは、そんな単純な告発では終わらないところにあります。

なぜなら、その物語に参加している本人が、実際に楽しんでいるからです。

仲間ができる。

毎日に目的ができる。

次のイベントが楽しみになる。

誰かの成功を自分のことのように喜べる。

昨日まで何となく過ごしていた日常に、「次」が生まれる。

そう考えると、外から

「そんなものは作られた物語だ」

と言ったところで、あまり意味がありません。

本人にとっては、その物語に参加している人生の方が、参加していない人生より面白いのです。

ここに、この問題の難しさがあります。

なぜタイトルが「メガチャーチ」なのか

そこで効いてくるのが、『イン・ザ・メガチャーチ』というタイトルです。

メガチャーチとは、大規模な信徒を抱える教会を指します。

この言葉をファンダムと重ねると、いろいろなものが急に似て見えてきます。

信仰の対象がいる。

同じものを信じる共同体がある。

集会がある。

共通の言葉がある。

その世界に入った者だけが理解できる文脈がある。

そして、自分たちがその存在をもっと広めたいと考える。

実際、日本のファン文化でも「布教」という言葉を冗談交じりに普通に使います。

ライブ会場を見れば、何千人もの人が同じ対象を見つめ、同じ歌を歌い、同じタイミングで歓声を上げる。

そこだけを切り取れば、宗教的な儀式とまったく無関係とも言い切れません。

もちろん、だから「推し活=宗教」という話ではありません。

面白いのは、

人間が大勢で一つの物語を共有するときに生まれる構造そのものが似ている

ということです。

「この人が好き」から「この人を好きな自分」へ

さらに物語への参加が長くなると、もう一つの変化が起こります。

最初は、

「この人が好き」

だったはずです。

ところが、時間とお金を使い、仲間が増え、思い出が積み重なっていくと、

「この人を好きな自分」

になります。

さらに進むと、

「この人を応援してきた自分の人生」

になります。

ここまで来ると、対象から離れることは簡単ではありません。

単にファンをやめるという話ではなくなるからです。

これまで費やしてきた時間。

そこで出会った人。

楽しかった記憶。

苦しかった記憶。

そして、その時々の自分自身。

対象から離れることは、それら全部の意味をもう一度考え直すことにもなります。

だから人は、相手に縛られているというより、

自分自身が作り上げた物語から降りられなくなる。

これはファンダムだけの話ではないでしょう。

恋愛でも、仕事でも、投資でも、宗教でも、あるいはクリエイターとしての活動でも、似たことは起こります。

「ここまでやってきたのだから」

という言葉が出てきた瞬間、私たちは対象そのものだけでなく、自分の過去とも向き合うことになります。

物語は危険だからなくせばいいのか

では、物語を持たない方がいいのでしょうか。

おそらく、そう単純でもありません。

そもそも人間は、かなり多くのものを物語として理解しています。

仕事を続ける理由。

創作をする理由。

誰かを好きになる理由。

自分はどういう人間なのかという自己認識。

「昔はこうだった。しかし今はこうしている。だから次はこうしたい」

これも立派な物語です。

物語があるから、昨日と今日と明日がつながります。

逆に、すべてを単なる出来事の羅列として認識していたら、人間はなかなか前へ進めないのかもしれません。

そう考えると、本当に怖いのは「物語」そのものではありません。

自分が物語の中にいることを忘れてしまうこと

なのではないでしょうか。

「闇祓」を読んだ直後だから気づいたこと

そして、今回はもう一つ、少し違った角度から面白く読みました。

直前まで辻村深月の「闇祓」を読んでいたこともあり、朝井リョウの描く女性と、女性作家が描く女性との違いをかなり強く感じたのです。

もちろん、

「男性作家はこう、女性作家はこう」

と性別だけで作家を分類することはできません。

それでも読書を続けていると、時々かなり明確な「カメラ位置の違い」を感じます。

男性作家が女性を描く場合、

髪。

服装。

肌。

表情。

声。

仕草。

といった、外側から観察できる情報が中心になることがあります。

そして、不思議なくらい女性が「清潔」です。

一方、女性作家が女性を書くときには、ときどき容赦がありません。

汗をかく。

髪が肌に張り付く。

服の中が蒸れる。

寝起きには匂いがする。

皮脂もある。

体調によって身体の感覚も変わる。

そこには、

「人間も結局は身体を持った動物なのだ」

という感覚があります。

女性が「描かれる対象」ではなく、身体の内側から世界を感じている。

辻村深月を読んだ直後だったため、『イン・ザ・メガチャーチ』を読みながら、この違いが妙にはっきり見えました。

『闇祓』を読んで――悪意はなぜ「正しさ」の顔をして近づくのか

「女性を描く」のか「女性の身体から世界を見る」のか

私はこの違いを、

女性を描いているのか。
女性の身体から世界を見ているのか。

というカメラ位置の違いとして考えると面白いと思っています。

これは優劣の話ではありません。

むしろ朝井リョウの場合、人物の身体そのものより、その人間が社会のどの位置にいて、何に影響され、どう行動していくのかを見る視線が非常に鋭い。

つまりカメラが人物の皮膚の内側に入っていくというより、

人物を社会という巨大な装置の中に置いて観察する。

だからこそ『イン・ザ・メガチャーチ』では、ファンダム、マーケティング、SNS、共同体といったものの構造が鮮明に見えてくるのでしょう。

これも、作家による視点の違いを楽しむ読書の面白さです。

「推し活の小説」と思って読むともったいない

『イン・ザ・メガチャーチ』は、表面的には現代のファンダムを描いた作品です。

しかし私は、

「推し活について書かれた小説」

だけで終わらせてしまうのは、少しもったいないと思いました。

そこで描かれている仕組みは、もっと広い。

マーケティング。

宗教。

SNS。

政治。

恋愛。

仕事。

創作。

そして、自分自身について語る物語。

対象が何であれ、人間は物語を共有すると驚くほど大きな力を発揮します。

見知らぬ人同士が協力し、時間を使い、お金を使い、ときには自分でも驚くほど熱心に行動する。

だから物語は魅力的であり、同時に少し怖い。

物語の外側に、本当に出られるのだろうか

この小説を読んで私が最後に考えたのは、

「物語に騙されないようにしよう」

ということではありませんでした。

むしろ、

「物語を持たずに、人間は生きられるのだろうか」

ということでした。

誰かを応援することも。

作品を作ることも。

将来に期待することも。

過去を振り返って「あの経験には意味があった」と思うことも。

すべて何らかの物語によって成り立っています。

そう考えると、必要なのは物語から完全に逃げることではなく、

「いま自分は、どんな物語の中にいるのか」

と、ときどき確認することなのかもしれません。

『イン・ザ・メガチャーチ』は、ファンダムという非常に現代的で身近な入口から、そのかなり根源的なところまで連れていってくれる小説でした。

推し活に興味がある人だけが読む本ではありません。

マーケティングに関わる人。

SNSを使っている人。

何かを作って発信している人。

誰かを応援した経験がある人。

そして、自分の人生について何らかの「物語」を持っている人。

つまり、かなり多くの人に刺さる可能性のある作品だと思います。

読み終えたあと、街の広告やSNSの投稿、そして自分が「好きだ」と思っているものの見え方が、ほんの少し変わるかもしれません。

それこそが、この小説の面白さなのだと思います。

広告
最新情報をチェックしよう!