『闇祓』を読んで――悪意はなぜ「正しさ」の顔をして近づくのか

  • 2026年10月22日
  • 2026年10月21日
  • 読書

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「人は宗教的確信から行うときほど、徹底して、そして喜々として悪をなすことはない。」

――パスカル『パンセ』より

『闇祓』という、人の悪意を描いたホラー

辻村深月の『闇祓』を読んだ。

これまで辻村深月の作品では、男女の関係や家族、人と人との距離感を描いたものを何冊か読んできたが、今回は初のホラーということもあり、とても興味深く読むことができた。

辻村深月という作家は、人の感情がほんの少し揺れる瞬間を言語化するのがとてもうまい。

なぜその一言が引っかかったのか。

なぜ昨日までは気にならなかった相手の態度が、今日は妙に不快なのか。

なぜ自分でも説明できないまま、誰かを避けるようになってしまったのか。

そうした、人間自身もうまく説明できない感情を拾い上げ、それを物語へ落とし込んでいく。

しかも文章のテンポが速い。

そのため、内面をかなり細かく描いているにもかかわらず、読者は心理描写に立ち止まるというより、むしろ物語の中へ引き込まれるように読み進めてしまう。

そして『闇祓』では、その能力が「人の悪意」という方向に使われている。

人が壊れていくプロセス

この小説で特に印象に残ったのは、人が少しずつ壊れていく過程である。

「同僚」のエピソードでは、それが非常に巧妙に描かれている。

最初から誰かが露骨な悪人として現れ、標的となった人物を攻撃するわけではない。

最初はほんの小さな違和感である。

「あの人、少し変じゃない?」

その一言に、

「そう言われてみれば」

と誰かが反応する。

さらに別の誰かが、

「私も前から少し気になっていた」

と言い始める。

こうして一人の感情が他人へ伝わり、それぞれが自分の経験の中から「それを裏付けるもの」を探し始める。

やがて、

「あの人には問題がある」

という共通認識が出来上がる。

興味深いのは、誰かが最初から大きな嘘をついているとは限らないことである。

小さな違和感。

小さな不満。

小さな嫉妬。

それぞれは人間なら誰にでもあり得る感情だ。

しかし、それらが互いに補強し合うことで、いつの間にか一つの「事実」のようなものが形成されてしまう。

ここに『闇祓』の怖さがある。

「隣人」で感じた、心理描写の圧縮

一方、「隣人」のエピソードでは、主人公である主婦が後半に壊れていく過程について、個人的には少し拙速にも感じた。

「同僚」がゆっくりと人間関係を侵食していく様子を描いているのに対し、「隣人」はある地点から心理状態が急速に崩れていく。

ただ、これは小説という形式を考えると仕方がない部分でもあるだろう。

現実のモラルハラスメントや人間関係による精神的な支配は、数カ月、場合によっては数年という時間をかけて進行する。

それを一つの章の中で現実と同じ密度で描けば、今度は物語全体のテンポが崩れてしまう。

だからここでは、現実なら長い時間をかけて起こる心理的侵食を、ある程度圧縮して描いているのだろう。

そして多少の速度差はあっても、『闇祓』全体を通して、人が壊れていく過程そのものの表現はやはり巧い。

被害者だけではなく、加害する側も変化していく

ここで興味深いのは、壊れていくのは被害を受けた側だけではないということだ。

ハラスメントを行う側にも、別の意味での変化が起きているのではないか。

最初から、

「この人間を壊してやろう」

と思っている人ばかりではない。

最初は、

「少しくらい言ってもいいだろう」

「本人のためを思って言っている」

「こちらだって我慢している」

「相手にも原因がある」

その程度から始まることもある。

しかし、その言動によって相手が傷つく。

そこで自分の行為を真正面から認めれば、

「自分は人を傷つけた」

という事実と向き合わなければならない。

それは苦しい。

だから、

「あの人が弱すぎるだけだ」

と考える。

さらに相手が疲弊し、仕事でミスをしたり、人間関係の中で不安定になったりすると、

「やっぱり、あの人には問題があった」

と考えるようになる。

ここで因果関係が反転する。

本来は、

「攻撃されたから人が壊れた」

はずなのに、

「もともと壊れやすい問題のある人間だったから、自分は注意した」

という物語へ書き換えられる。

さらに攻撃する。

相手はさらに弱る。

そして、その弱った姿が、再び加害者の正しさを証明する材料になる。

つまり、

加害行為そのものが、加害行為を正当化する証拠を作り出していく。

これは非常に恐ろしい循環である。

悪意なのか、善意なのかわからない

そして『闇祓』の本当の怖さは、そこに登場する悪意が、私たちとは無関係な特殊な人間だけのものではないことである。

嫉妬する。

腹を立てる。

自分だけ損をしていると感じる。

誰かを鬱陶しく思う。

自分の価値観を相手にも理解してほしいと思う。

自分は間違っていないと思いたい。

どれも普通の人間の中に存在する感情だ。

だからこそ、受ける側も判断が難しくなる。

「この人は自分のためを思って言っているのかもしれない」

「自分にも問題があるのではないか」

「この程度のことで傷つく自分の方がおかしいのではないか」

悪意なのか。

善意なのか。

あるいは自分自身の問題なのか。

その判断を繰り返すうちに、自分自身の感覚を信用できなくなっていく。

そして気付いたときには、すでに闇の中にいる。

これが『闇祓』で描かれる「闇」の一つなのだと思う。

「正しさ」は悪意を消してしまう

ここで、冒頭に置いたパスカルの言葉へ戻りたい。

人は、自分が悪いことをしていると思っているときには、まだ罪悪感を持つことができる。

しかし、

「自分は正しい」

と確信した瞬間、そのブレーキが外れることがある。

歴史上の魔女狩りもそうだった。

誰かを苦しめること自体が目的なのではない。

「悪を排除する」

「社会を守る」

「正しい信仰を守る」

という大義が存在する。

だから制裁する側は、自分を悪人だとは思わない。

むしろ善いことをしていると感じる。

これは現代のソーシャルメディアでも起こる。

不正や問題行為を知ったとき、

「これは許せない」

と思う。

そして批判する。

そこまでは何もおかしくない。

しかし、

「この人物は悪だから、何をしてもよい」

となった瞬間、正義は別のものへ変わる。

勤務先へ大量に連絡する。

家族まで攻撃する。

過去を掘り返す。

関係のない人格まで否定する。

社会から消えるまで追い込もうとする。

それでも本人は、

「自分は悪を制裁しているだけだ」

と思っている。

現代の魔女狩りである。

だからといって「正義感」を悪にしてはいけない

ここで重要なのは、

正義感そのものを悪と考えてはいけない

ということだ。

例えば浮気、不正会計、ハラスメント、職場での不正などが発覚したとする。

力を持つ人物が加害する側だった場合、ときに奇妙なことが起こる。

本来問われるべきなのは、

「不正があったのか」

ということである。

ところが、いつの間にか、

「なぜそんなことを調べていたのか」

「なぜ黙っていられなかったのか」

「チームを壊したのは誰なのか」

「告発した人にも問題があるのではないか」

という話に変わっていく。

問題の中心が、

不正を行った人から、不正を知った人へ移される。

そして告発した側が孤立する。

これは『闇祓』で描かれる「闇ハラ」と非常によく似た構造を持っている。

DARVO――被害者と加害者を入れ替える

この現象を考えるうえで興味深い概念に「DARVO」がある。

心理学者ジェニファー・フレイドが提唱した言葉で、

Deny ―― 否認する
Attack ―― 告発した相手を攻撃する
Reverse Victim and Offender ―― 被害者と加害者の立場を逆転させる

という反応を表している。

例えば、

「そんなことはしていない」

と否定する。

次に、

「あの人は信用できない」

「あの人には別の目的がある」

と告発者を攻撃する。

そして最後には、

「自分こそ不当に攻撃されている被害者だ」

という構図を作る。

すると周囲の人間から見た世界が反転する。

研究でも、DARVOに接した第三者が、加害者側をより信用し、被害者側をより信用しにくく評価する方向へ動くことが確認されている。

ただし、ここで非常に重要なのは、DARVOらしい反応が見られたからといって、それだけで過去の加害行為そのものが証明されるわけではないという点である。

提唱者自身もこの点には注意を促している。

この留保は、後で非常に重要になる。

マニピュレーションが作る「別の現実」

マニピュレーションの恐ろしさは、単に嘘をつくことではない。

周囲の人間に、

「どちらが被害者なのか」

「誰を信用すべきなのか」

という別の物語を作り出すことにある。

そして力のある人物ほど、その物語を広げやすい。

組織であれば人事評価や役職、情報量、人脈。

家庭なら経済力や家族関係。

SNSならフォロワー数や発信力。

事実そのものを書き換えることはできなくても、

その事実をどう理解するべきかという物語を支配することはできる。

その結果、告発者が孤立し、疲弊する。

疲弊すれば言動も不安定になる。

すると、

「ほら、やっぱりあの人には問題があった」

と言われる。

ここでも、

追い込んだ結果を、追い込む理由にする

という構造が完成する。

『闇祓』で描かれる人間関係の怖さは、決して小説の中だけのものではない。

ソーシャルメディアは「闇」を増やすだけなのか

ここまで書くと、ソーシャルメディアは非常に恐ろしい場所に見える。

実際、悪意が伝播する速度を考えれば、その側面は否定できない。

しかし、私はSNSにはもう一つ重要な役割があると思っている。

見えなかったものを、見えるようにすることだ。

以前なら、職場でモラハラを受けても、

「こんなことを気にするのは自分だけだろう」

と思っていたかもしれない。

家庭の中で自分の判断を否定され続けても、

「自分がおかしいのだろう」

と思っていたかもしれない。

告発した途端に自分が悪者にされても、

「どうしてこんなことになったのかわからない」

と思っていたかもしれない。

しかしSNSによって、似た経験をした人の話を知ることができる。

そこに、

「モラルハラスメント」

「ガスライティング」

「DARVO」

といった名前が付く。

名前が付くということは重要だ。

理解不能だった出来事に構造が見える。

「自分にだけ起きている異常な出来事ではない」

と知ることができる。

そして、その認識が自分自身の感覚を取り戻すきっかけになることもある。

これはSNSが持つ大きな可能性だと思う。

闇祓――見えなかったものを見えるようにする

そう考えると、『闇祓』というタイトルが別の意味を持って見えてくる。

闇を祓うというのは、単純に悪人を退治することではないのかもしれない。

見えなかったものを見る。

名前のなかったものに名前を付ける。

善意だと思っていたものの中に、支配がなかったかを見る。

正義だと思っていた行動の中に、快楽としての制裁が混じっていなかったかを見る。

「あなたがおかしい」と言われ続けていた人が、

「本当におかしかったのは何だったのか」

をもう一度考える。

闇を祓う最初の行為とは、

闇を見ることなのかもしれない。

しかし「マニピュレーター」という言葉もまた武器になる

ただし、ここで一つ大きな落とし穴がある。

「モラハラ」

「ガスライティング」

「マニピュレーター」

「DARVO」

こうした言葉が広く知られるようになることには、大きな意味がある。

しかし同時に、それらの言葉そのものを使って、人を攻撃することもできる。

「あの人はマニピュレーターだ」

と言った瞬間、相手の言葉をすべて嘘として扱う。

相手が反論すれば、

「それこそDARVOだ」

と言う。

否定すれば、

「否定するところがまさに加害者の特徴だ」

と言う。

これでは、相手は何を言っても罪を認めたことになってしまう。

それは論証ではない。

そして、それこそが新しい魔女狩りになり得る。

新しい魔女狩りにしないために

だから、「見えなかったものを見えるようにすること」と「誰かを断罪すること」は分けて考えなければならない。

見るべきなのは、その人の人格ではなく、まず具体的な行為である。

何が起きたのか。

いつ起きたのか。

誰が何を言ったのか。

権力関係はどうなっていたのか。

一度の出来事なのか、継続していたのか。

反論する機会はあったのか。

第三者から確認できる事実はあるのか。

そして制裁が、実際に起きたことに対して比例しているのか。

「マニピュレーターだから悪い」のではない。

「この人物が行った、この行為には問題がある」と考える。

この違いは大きい。

人にレッテルを貼ることは簡単だ。

しかしレッテルは、貼った瞬間に思考を止めてしまう。

それでは、「魔女」という言葉を貼り付けた過去と変わらない。

悪意は、悪意の顔をしてやって来るとは限らない

『闇祓』を読み終えて残ったのは、怪異そのものへの恐怖ではなかった。

むしろ、人間というものへの怖さだった。

悪意は必ずしも、

「あなたを傷つけたい」

という顔をしてやって来るわけではない。

「あなたのため」

「みんなのため」

「会社のため」

「家族のため」

「社会のため」

「正義のため」

という顔をして近づいてくることがある。

だから見分けにくい。

そして恐らく、それは他人だけの問題でもない。

私たち自身もまた、自分の中にある小さな嫉妬や怒り、正義感によって、気付かないまま誰かを闇へ追い込む側になる可能性を持っている。

だから必要なのは、

「悪人を見つけること」

ではないのだと思う。

自分を含めて、人がどのように悪意へ巻き込まれ、どのようにそれを正当化し、どのように他人へ伝播させるのか。

そのプロセスを見ることだ。

『闇祓』が恐ろしいのは、闇が遠くにあるからではない。

闇へ続く入口が、

善意や常識や正義とほとんど同じ姿をして、

私たちの日常の中に存在しているからなのだ。

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