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最近、カセットテープで音楽を聴くことが増えました。
きっかけは、近所の方が大量に処分していた英会話教材のカセットテープです。
それを聴くためにラジカセやウォークマンを購入したのですが、せっかく再生環境が整ったので、最近では父が残した音楽コレクションのカセットテープも聴くようになりました。
もちろん、音質だけを比較すれば、現在のデジタル環境には到底かないません。
特に、その場の空気感や楽器の距離感まで含めて味わいたいジャズでは、録音によっては音の粗さが気になることもあります。
一方で、昔のポップスや古い録音のジャズでは、その少し曖昧な音がかえって良い味になることもあります。
そして、しばらく聴いているうちに、もう一つ興味深いことに気付きました。
カセットを聴きながらなら本が読める
私はもともと、集中力が必要な作業をするときには、あまり音楽を流しません。
音質が良い環境で音楽を流していると、どうしても途中で演奏や音色に意識が向いてしまいます。
特に自分自身が音楽制作をしていることもあって、
「今のベースの音はいいな」
「このリバーブはどう作っているんだろう」
「この定位は面白い」
などと考え始めると、作業の手が止まってしまいます。
読書も同じです。
基本的には無音の方が集中できます。
ところが不思議なことに、カセットテープをウォークマンで聴きながらだと、小説を普通に読み進めることができました。
音楽も聞こえている。
小説の内容も頭に入っている。
どちらかを完全に無視している感覚でもありません。
ここで、
「これは音質の違いだけではなく、情報量と注意力の問題なのではないか」
と考えるようになりました。
人は本当に二つのことを同時にしているのか
私たちは日常的に「ながら作業」をしています。
音楽を聴きながら本を読む。
ラジオを聴きながら料理をする。
人と話しながら運転する。
複数の人が話していても、それぞれの話を聞き分けることもあります。
しかし、人間の意識は、すべてを同じ深さで完全に並列処理しているわけではありません。
実際には、注意を非常に速く切り替えながら処理している部分がかなりあります。
三人の話を同時に聞ける人も、三人分の文章を完全に同時処理しているというより、
Aの話に注意する。
一瞬Bへ移る。
再びAへ戻る。
今度はCを拾う。
というように、注意を非常に素早く移動させていると考えた方が自然です。
ここで重要になるのが、注意を切り替えるたびに発生する小さなコストです。
一回一回はほとんど意識しない程度でも、その切り替えが何十回、何百回と続けば、集中力は当然消耗します。
情報量より「注意を呼ぶ情報」が問題なのかもしれない
ここでカセットテープの話に戻ります。
カセットは、現代の高音質な再生環境に比べれば、細かな情報が失われます。
高域の細かな成分。
アタック。
空間情報。
微細な残響。
音像の輪郭。
楽器同士の距離感。
こうしたものが少しずつ丸くなります。
しかし、音楽そのものは残ります。
メロディもある。
リズムもある。
感情もある。
曲の流れも分かる。
つまり、
音楽として必要な情報は残しながら、注意を強く引きつける細かな情報が減っている
とも考えられます。
高音質な音楽では、
「今のハイハット」
「今のブレス」
「今の定位」
「今の音色変化」
と、次々に注意を引く要素が現れます。
そのたびに読書から音楽へ意識が移る。
そしてまた読書へ戻る。
ところがカセットでは、その輪郭が少し曖昧になる。
音楽全体が、一つの背景としてまとまりやすくなる。
つまり、
情報量が少ないから楽なのではなく、注意を呼び戻すイベントの密度が低い
のかもしれません。
この違いは大きいように思います。
音楽と読書は、どの程度同じ場所を使っているのか
もう一つ考えたのが、
「音楽は感情に関わるものだから、読書や数学のような論理的な作業とは干渉しにくいのではないか」
ということです。
これもある程度は成り立ちそうですが、少し単純化しすぎると危険です。
音楽も感情だけで処理しているわけではありません。
リズムを追う。
コード進行を予測する。
歌詞を理解する。
音色を識別する。
過去の記憶と結びつける。
こうした多くの処理が同時に行われています。
特に歌詞のある音楽と文章を読む作業は、どちらも言語処理を使うため、競合しやすくなるでしょう。
逆に、インストゥルメンタルの音楽と単純作業なら、それほど競合しない可能性もあります。
ここで重要なのは、
二つの作業がどれだけ同じ認知資源を取り合うか
ということなのだと思います。
音楽制作に例えるなら、同じ周波数帯域に楽器が集中するとマスキングが起きるのと似ています。
ボーカルとギター。
キックとベース。
ピアノとストリングス。
それぞれ単体では良い音でも、同じ帯域に詰め込みすぎれば、全体では濁ります。
生活の中でも同じことが起きているのかもしれません。
生活もミックスされている
ここまで考えて、音楽制作と生活にはかなり似た部分があることに気付きました。
ミックスでは、すべての楽器を最大音量にしません。
すべてを一番広くもしません。
すべてを一番明るくもしません。
すべてを一番前にも出しません。
もし全部の楽器が、
「自分を聴いてくれ」
と前に出てきたら、音楽として成立しなくなります。
ところが生活では、これに近いことをやってしまいます。
仕事も頑張る。
趣味も充実させる。
SNSも見る。
ニュースも追う。
本も読む。
動画も見る。
人付き合いも大切にする。
運動もする。
勉強もする。
全部を最大化しようとする。
しかし、それでは生活全体が常に飽和状態になります。
音楽で言えば、すべてのフェーダーを上げ切った状態です。
高音質だから良い、ではない
ここで今回のカセット体験が一つの象徴になります。
高音質だから良い。
予定が多いから充実している。
情報が多いから豊か。
全部できるから優秀。
ではない。
むしろ大切なのは、
その場に必要なものが、必要なだけ存在していること
なのではないでしょうか。
音楽を集中して鑑賞するなら、高音質な再生環境は素晴らしい。
しかし読書の背景として流すなら、カセットの方が心地よいこともある。
つまり、
単体性能では劣っていても、全体の中では最適になることがある
ということです。
これはミックスそのものです。
ベース単体では少し細い。
ギター単体では少し暗い。
ボーカル単体では少しドライ。
しかし全体で聴くと、それが一番良い。
生活も同じなのかもしれません。
生活の問題は、ミックスだけでは解決できない
さらに音楽制作では、ミックス以前にアレンジがあります。
音がぶつかっているからといって、すべてEQで解決しようとしてもうまくいかないことがあります。
そもそも楽器が多すぎる場合です。
その場合、一番効果的なのは、
何か一つを消すこと
だったりします。
生活でも同じです。
忙しくなると、
スケジュール管理を工夫する。
新しいToDoアプリを使う。
作業効率を上げる。
通知を整理する。
といった方法を考えます。
これは生活の「ミックス」を改善しようとしている状態です。
しかし、そもそも予定そのものが多すぎる場合には、ミックスでは解決できません。
必要なのはアレンジです。
予定を一つ減らす。
仕事を一つ断る。
見なくていい情報を見ない。
使わないアプリを消す。
やらなくてもいい習慣をやめる。
音楽でも生活でも、
足す技術より、引く判断の方が難しい
のかもしれません。
生活にはヘッドルームが必要
音楽制作にはヘッドルームがあります。
常に限界まで音を詰め込んでしまえば、突然大きな音が来ても受け止める余裕がありません。
生活も同じです。
予定を100%埋める。
注意力を常に使い切る。
情報を常に取り込む。
それでは、突然何かが起きたときに受け止める余裕がなくなります。
何もしない時間。
ぼんやりする時間。
散歩する時間。
音楽をただ聴く時間。
これらは無駄ではなく、
生活のヘッドルーム
なのではないかと思います。
そして音楽には休符があります。
全部の小節で全部の楽器が鳴っているわけではありません。
むしろ、音が消えるから次の音が意味を持ちます。
生活でも同じです。
何もしていない時間があるから、その後に起こることが際立つ。
良い生活とは、音圧の高い生活ではない
現代は、簡単に情報を増やすことができます。
動画。
SNS。
ニュース。
音楽。
メッセージ。
通知。
知識。
娯楽。
それぞれ単体では悪いものではありません。
むしろ便利で、面白く、豊かなものです。
しかし、全部のフェーダーを上げれば良いわけではありません。
音楽制作と同じように、
何を主役にするのか。
何を背景に置くのか。
何を削るのか。
何をミュートするのか。
どこに余白を作るのか。
どの瞬間だけフェーダーを上げるのか。
そう考えると、
生活そのものを一つのミックスとして考える
という発想ができます。
豊かさとは、要素の多さではなく、配置の良さなのかもしれません。
そして、
良い生活とは、音圧の高い生活ではなく、ダイナミクスのある生活なのかもしれない。
カセットテープを聴きながら小説を読んでいて、そんなことを考えました。