「めんどくさい人」ほど音楽になる──私たちはなぜ“規格外”に惹かれるのか

  • 2026年10月11日
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  • 雑談

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世の中には、いわゆる「めんどくさい人」がいます。

感情の起伏が激しい。

急に距離を縮めてきたかと思えば、突然突き放す。

相手の気持ちを確かめるために、少し試すような行動をする。

寂しさや不安を、自分の中だけでは処理しきれず、誰かとの関係によって埋めようとする。

俗に「メンヘラ」と呼ばれることもありますが、ここでは医学的な意味ではなく、もう少し広く、

「他人を巻き込みながら、自分の感情を安定させようとする傾向の強い人」

くらいの意味で考えてみたいと思います。

そして不思議なことに、こういう人はときどき、とても魅力的に見えます。

「めんどくさい人」は、なぜ魅力的なのか

感情の安定している人は、基本的に予測可能です。

昨日優しかった人は、今日もだいたい優しい。

連絡が少し遅れても、それだけで関係そのものを疑ったりしない。

何か問題があれば、言葉で話し合う。

人間関係としては、その方がずっと楽です。

ところが「物語」として見た場合はどうでしょう。

昨日まであんなに近かったのに、今日は急によそよそしい。

「もういい」と言われたけれど、本当に放っておいていいのだろうか。

突然プロフィール画像が消えている。

何かあったのか。

自分が何かしたのか。

こうした小さな違和感には、常に「続き」があります。

感情の振幅が大きい人には、次の展開がある。

そして人間は、ときにその人自身ではなく、

その人によって発生する物語

に惹かれてしまうのではないかと思います。

安定した人間関係では感じることのない緊張感。

突然訪れる強い親密さ。

「あなたにしか話せない」と言われたときの特別感。

それらは刺激として、とても強い。

そして刺激が強いほど、

「これだけ感情を揺さぶられるのだから、この人をものすごく好きなのだ」

と錯覚してしまうこともあります。

しかし、

感情が大きく揺れたことと、相手を深く愛していることは、本来別の話です。

私は「小さなサイン」を見る

ここからは完全に私個人の経験則です。

何か科学的な判定基準があるわけではありません。

その点は先に断っておきます。笑

私は以前、人間関係で少々めんどくさい経験をしたこともあり、今では初期段階でいくつかの小さなサインを見るようになりました。

例えば、プロフィール画像を非常に頻繁に変える人。

これだけなら、もちろん何の問題もありません。

単純にSNSが好きなのかもしれないし、その日の気分で画像を変えたいだけなのかもしれない。

私の中では、せいぜい「警戒レベル1」くらいです。笑

ただ、

頻繁に画像を変える。

突然しばらく無画像になる。

意味深な投稿が増える。

その後、周囲から「どうしたの?」と声を掛けられると元に戻る。

こうしたことが何度も繰り返されると、私は少し様子を見るようになります。

重要なのは、アイコンを消すこと自体ではありません。

その行動によって、周囲をどう動かそうとしているのか。

私はそこを見ています。

同じことは、

「もう連絡しない」

「私なんてどうでもいいんでしょ」

「別れた方がいいのかも」

といった言葉にも言えます。

もちろん、本当にそう思っている場合もあります。

しかし、それを言うことによって相手が追いかけてくることを期待しているのであれば、少し話が変わってきます。

自分の不安を自分で処理するのではなく、

相手を動かすことで、自分を安心させようとしている。

この構造が何度も繰り返される関係には、私は深入りしないようにしています。

「救ってあげたい」という誘惑

もう一つ注意したいのは、そういう相手に惹かれる側です。

感情的に不安定な人に巻き込まれるのは、必ずしも気の弱い人とは限りません。

むしろ、

人の気持ちを理解しようとする人。

責任感が強い人。

面倒見が良い人。

問題が起きると解決したくなる人。

こういう人ほど、深く入り込んでしまうことがあります。

「この人を理解できるのは自分だけかもしれない」

「自分が支えてあげなければ」

「この人がこうなってしまうのには理由がある」

そう考えているうちに、いつの間にか相手の感情管理まで担当するようになる。

そして厄介なのは、支える側にも報酬があることです。

頼られる。

必要とされる。

特別な存在だと思われる。

だから関係を切れなくなる。

つまり、

感情を預けたい人と、感情を引き受けてしまう人。

この組み合わせができると、両方にとって非常に抜けにくい関係になります。

だから私は、相手だけでなく、自分自身も観察した方がいいと思っています。

「この人を助けたい」と感じたとき、

本当に相手を思っているのか。

それとも、

「自分がこの人にとって特別な存在である」

という感覚に、自分自身も惹かれているのか。

そこは意外と曖昧です。

しかし、ここから音楽の話になる

ここまで読むと、

「では、そういう面倒な人とは距離を取った方がいい」

という記事になりそうです。

現実の人間関係としては、私も概ねそう思っています。

しかし作曲や作詞という視点になると、話が完全に逆になります。

現実では距離を取りたくなるような感情ほど、

音楽では魅力的なのです。

嫉妬。

執着。

依存。

見捨てられることへの恐怖。

自己否定。

未練。

相手を独占したいという感情。

「好きなのに、幸せになってほしくない」という矛盾。

こういうものは、現実の人間関係ではかなり厄介です。

ところが歌詞になると、とたんに強い。

なぜなら、そこには人間の理性では処理しきれない部分が露出しているからです。

「まともな人」は案外、歌になりにくい

今回考えていて、特に面白いと思ったのがここです。

極端な言い方をすると、

「まともな人」は案外、歌になりにくい。

例えば、

二人はお互いを尊重していました。

価値観に違いがあることに気づきました。

何度か話し合いました。

最終的に、お互いの将来のために円満に別れることにしました。

とても成熟した関係です。

人間としては、おそらくこちらの方が理想的です。

しかし、この内容だけで3分半の曲を書くのは相当難しい。笑

一方、

「別れたのに毎晩あなたのSNSを見ている」

となった瞬間、曲になります。

「連絡なんて待っていない」

と言いながら、

音の鳴らないスマートフォンを朝まで何度も確認している。

これはもう、そのまま歌詞になる。

つまり音楽では、

合理的に説明できない感情ほど強い。

平穏は、とても大切なのに歌になりにくい

心が安定していて、

今日も穏やかだった。

大きな問題もなかった。

大切な人と静かに一日を過ごした。

人生として考えれば、おそらくこちらの方がずっと大切です。

本当に幸せな状態というのは、むしろ事件が起きない状態なのかもしれません。

しかし皮肉なことに、その平穏は音楽にしにくい。

感情の振幅が小さいからです。

ドラマが起きない。

物語が動かない。

だから多くの歌では、

出会い。

別れ。

喪失。

嫉妬。

後悔。

絶望。

といった、人生の中でも特に感情が大きく動いた瞬間が描かれます。

音楽は日常そのものより、

日常が揺らいだ瞬間を描くのが得意な表現なのかもしれません。

小説なら、その先まで描ける

この点では、小説はとても強い。

小説なら、

激しい恋愛をする。

相手に依存する。

傷つく。

関係が壊れる。

一人になる。

そして少しずつ自分の生活を取り戻していく。

最後には、

誰かと静かに食事をすること。

一人で穏やかに眠れること。

朝になれば普通に仕事へ向かえること。

そういう何でもない生活こそ大切だった、と気づく。

ここまで描くことができます。

むしろ素晴らしい小説ほど、非日常を通過したあとに、

日常の価値

を浮かび上がらせることがあります。

しかし歌の場合、これは難しい。

3分や4分の中で、

依存。

破綻。

喪失。

回復。

再生。

そして平穏。

ここまで全部書けば、どうしても説明的になります。

だから音楽では、物語を最後まで説明するよりも、

その変化が起こる一瞬を切り取る

方が強い。

しかし、歌の主人公は平穏に戻らなくてもいい

ここまで考えて、もう一つ大事なことに気づきました。

歌の主人公は、必ずしも平穏な日常へ戻る必要はありません。

最後まで壊れたままでもいい。

嫉妬したままでもいい。

執着したままでもいい。

誰かを忘れられなくてもいい。

場合によっては、何一つ成長しなくてもいい。

作品の中では、その感情を解決する必要はありません。

なぜなら、

平穏に戻るのは主人公ではなく、聴き手でもいいからです。

私たちは、なぜ「規格外」を見たがるのか

これは音楽だけの話ではありません。

例えば、お笑いの世界でも、

「最近の芸人は行儀が良くなって、面白くなくなった」

という言葉を耳にすることがあります。

その評価が正しいかどうかは別として、この言葉の裏には、

芸人には、自分たちの代わりに常識を破ってほしい

という期待もあるのではないでしょうか。

一般社会では、

空気を読む。

人を傷つけない。

問題を起こさない。

言葉を選ぶ。

周囲に合わせる。

そうした自己統制を求められます。

それは社会で生活していくうえで、とても大切なことです。

しかしだからこそ、エンタメの中では、

「普通なら、そんなことしないだろう」

という人物を見たくなる。

「そこまで言うのか」

「そんなこと、本当にやるのか」

という人間を見たくなる。

現実の友人なら困る。

職場の同僚なら、もっと困る。

でもテレビや舞台の向こう側なら、安心して笑うことができる。

ここには、人が「規格外」を楽しむ仕組みを考えるうえで興味深い理論があります。

Benign Violation Theory──「逸脱」と「安全」が同時にあるから面白い

心理学者のA. Peter McGrawとCaleb Warrenは、ユーモアについて「Benign Violation Theory(良性違反理論)」という考え方を提唱しています。

簡単に言えば、

人が「面白い」と感じるためには、

何らかの規範や期待が破られること=Violation

と、

それでも大丈夫、安全である、許容できると感じられること=Benign

が同時に存在する必要がある、という考え方です。

ただ常識通りでは面白くない。

しかし本当に危険だったり、自分自身が深刻な被害を受けていたりすれば、笑うどころではない。

その間に、

「これは常識から外れている。でも、自分は安全だ」

という領域がある。

そこに笑いが生まれる。

この理論では、その「安全さ」を成立させる条件の一つとして、心理的な距離も重要だとされています。

もちろんBenign Violation Theoryは、本来ユーモアを説明するための理論です。

これだけで音楽や小説、映画まで説明できる、と言うつもりはありません。

ただ、

「安全な距離から、規範からの逸脱を楽しむ」

という構造は、芸術やエンターテインメントを考えるうえでも非常に示唆的に思えます。

現実なら困る。作品なら見ていたい

例えば、現実に身近な人が突然激怒したり、

執着したり、

こちらの気持ちを何度も試したりすれば、

「面白い人だな」

とはなかなか思えません。

自分自身がその物語に巻き込まれているからです。

ところが映画ならどうでしょう。

小説ならどうでしょう。

歌ならどうでしょう。

主人公が、

「あなたが他の誰かと幸せになるくらいなら、幸せになんてならなくていい」

と思っている。

現実に言われれば相当重い。

しかし歌の一節として聞けば、

「すごい感情だな」

と思える。

つまり、

距離があるから見ていられる。

自分自身には直接降りかかってこない。

作品が終われば、自分はいつもの生活へ戻れる。

だからこそ、現実では避けたいほど極端な感情を、作品の中ではじっくり眺めることができる。

規格外を眺めながら、自分の日常に安心する

ここには、少し面白い逆説があります。

私たちは規格外の人物を見て、

「すごいな」

「こんな生き方はできない」

と思う。

そして作品が終われば、

自分は普通に食事をする。

普通に仕事をする。

普通に眠る。

つまり、

規格外の人を眺めることで、自分が平穏な側にいることを確認している

とも考えられます。

規格外の人物は、

自分たちの代わりに常識を破る。

自分たちの代わりに極端な感情を生きる。

ときには自分たちの代わりに破滅する。

そしてこちらは、安全な場所からそれを見る。

そう考えると、芸術やエンターテインメントには、

「逸脱を安全に体験する装置」

という側面もあるのかもしれません。

しかし、本当に他人事なのだろうか

ただし、

「あの人は異常、自分は正常」

という単純な話でもありません。

嫉妬すること。

誰かを独占したいと思うこと。

別れた相手が気になること。

幸せになってほしいと思いながら、

自分以外の誰かと幸せになる姿は見たくないと思うこと。

程度の差こそあれ、こうした感情そのものは、それほど特別なものではありません。

普通なら、それを表には出さない。

理性で抑える。

相手にぶつけない。

社会生活では、それが正しい。

しかし作品の中の「規格外の人」は、

それを全部やってしまう。

だから私たちは、

「そこまではしない」

と思いながらも、

どこかで、

「でも少しわかる」

とも感じる。

ここがとても重要です。

規格外の人物を通して、自分の中の規格外を見る

つまり私たちは、

単に変わった人を面白がっているだけではありません。

規格外の人物を通して、

自分の中にも存在している、普段は表に出さない感情

を見ているのかもしれません。

「あそこまでではない。でも、わかる。」

この距離感は、芸術にとって非常に強い。

完全に理解できなければ、ただの奇人で終わる。

完全に普通なら、物語にならない。

その間にある、

「異常なのに、感情の根っこだけは理解できる」

という場所。

そこに作品としての魅力が生まれるのだと思います。

歌では「救済」まで描かなくてもいい

以前私は、

「平穏を失った人が、その価値に気づく瞬間なら歌になる」

と考えていました。

それも一つの強い方法だと思います。

例えば、

「通知の鳴らない夜に
今日はよく眠れそうだ」

という一行。

そこには、

寂しさ。

未練。

安堵。

回復。

いくつもの感情があります。

主人公が「普通の生活」へ戻り始めた瞬間を、一つの情景だけで描く。

これは歌だからこそできる表現でしょう。

しかし、必ずしもそこまで帰結させる必要はありません。

歌の主人公は、最後まで嫉妬していてもいい。

最後まで相手を許せなくてもいい。

最後まで忘れられなくてもいい。

なぜなら作品の中で問題を解決することより、

その感情の核を正確に掴むこと

の方が、歌では重要だからです。

異常な感情の中に、普通の人間を見つける

例えば、

「あなたの幸せだけは祈れない」

という一行。

人として褒められる感情ではありません。

理想的でもない。

美しくもないかもしれない。

しかし失恋した瞬間、

ほんの一瞬でも、そう感じたことのある人はいるかもしれません。

だからこの一行には、

強い嫉妬という「規格外」がありながら、

その奥には、

誰にでも理解できる感情の核

があります。

私はここが大事なのだと思います。

「異常な人間」を描くことそのものが目的ではない。

その異常さの中を掘っていったとき、

最後に、

「ああ、これは自分にもある」

というものに触れる。

そこまで行けた作品は強い。

そして、それを一行で書けたら

小説なら数百ページかけて、

一人の人間が壊れ、

迷い、

執着し、

誰かを傷つけ、

あるいは何も学ばないまま生きていく姿まで描くことができます。

しかし歌には、その時間がありません。

だからこそ、

嫉妬。

依存。

喪失。

後悔。

怒り。

執着。

安堵。

再生。

そういった複雑な感情の核を、

たった一行に圧縮する。

そこに作詞の難しさがあり、同時に魅力があります。

説明してはいけない。

しかし伝わらなければならない。

具体的でなければならない。

しかし聴き手自身の経験が入り込む余白も残さなければならない。

固有の物語でありながら、

誰かにとっては自分の歌に聞こえる。

その矛盾した条件を満たす一行が生まれたとき、

個人的な経験は普遍的な歌へ変わります。

規格外の人ほど音楽になる

現実の人間関係では、私はできれば穏やかでいたい。

突然感情をぶつけられたり、

こちらの愛情を何度も試されたり、

誰かの精神状態を常に管理するような関係は、できれば避けたいと思っています。

しかし創作となれば話は別です。

嫉妬深い人。

執着する人。

忘れられない人。

誰かを愛しすぎてしまう人。

自分の感情すら扱いきれない人。

そんな「規格外」の人ほど面白い。

現実なら、

「少し距離を置こうかな」

と思うような人でも、

曲の主人公としてなら、

「もう少し詳しく聞かせてほしい」

と思ってしまいます。笑

そしてそれは、音楽だけではありません。

芸人も。

小説の登場人物も。

映画の悪役も。

私たちは、自分ではできないことをする人間を、安全な場所から見ていたい。

その人の規格外を眺めながら、自分の日常に少し安心する。

しかし同時に、

その人物の中に、

自分でも認めたくない感情を見つける。

芸術やエンターテインメントとは、

そうやって人間の「まともではない部分」を、

安全に覗き込むための場所でもあるのでしょう。

そして音楽は、

その混乱の奥にあるものを見つけ、

たった一行にする。

主人公は救われなくてもいい。

まともにならなくてもいい。

平穏へ戻らなくてもいい。

ただ、

異常な感情の中に、普通の人間が見つかればいい。

名曲とは、

まともな感情を美しく並べたものではなく、

まともではない感情の中から、誰にでもあるものを掘り当て、それを一行で残すことのできた作品なのかもしれません。

「まともな人」は、確かに歌になりにくい。

けれど、

まともではいられなかった人の中に、誰もが知っている感情を見つけることができたなら、そこには普遍的な歌が生まれる。

 

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付録ー調声に最適なヘッドフォン!


付録として、お気に入りのお薦めグッズをここに掲載します!

今回は調整作業に使っている、ヘッドフォンです。


僕は基本的にヘッドフォンで音楽を聴くのは好きではなくて、アナログ録音時のモニターか雑音などの最終チェックにしか使いません。

その理由は再生音がヘッドフォンによる特性にかなり左右されるからです。なので制作時にはその目的に応じた音のヘッドフォンを選択することになります。録音時のモニターや雑音を検知するのに適したものを選びます。

ただ、ヘッドフォンはそれほど好きではないのです。空間を介さない直接耳に伝える音なので、どちらかというと好んで使うというよりも、作業工程で仕方なく使うことが多いです。

♡購入までの経緯

最近、SynthesizerVで調声をするようになって、MacBookPROを使用して外出先などでも作業するようになりました。そうするとヘッドフォンは必須となってきます。長時間装着して疲れなければ、まぁイイかくらいで適当に選んでいました。

当初はデザイン性からTeenage Engineering のヘッドフォンを使用していました。オシャレな感じと携帯に便利なので使っていました。ハイがカットされて中低位域がモッコリするのですが、聞き疲れしないので気に入っていました。しかし、カバンに入れて持ち歩いていると可動部分が折れてしまいました。

気に入っていたので(デザインが〜笑)再注文して、ついでにいろいろ検索していると「アシダボックス」なるものを見つけました。ものすごく評判が良くて一時期は入手困難な状態が続いていました。日本のメーカーでデザインがなんともレトロ。

Teenage Engineeringのヘッドフォンよりも安かったのでポチってみました。

♡調声に最適

結論からいいますと、めっちゃイイです。特にSynthesizerVの調声作業にバッチリです!

丁度、人の声の部分が聞きやすくて微細な変化もこのヘッドフォンだと聞き逃すことがないです。SynthesizerVで調声をされている方には、是非是非お薦めのヘッドフォンです。コスパも良いです。

同じデザインで、ST-90-05とST-90-07というのがあります。僕が購入したのはST-90-07のほうです。評判になっていたのはST-90-05のほうなのですが、さらにパーツのグレードを上げて音をよくしたのががST-90-07です。

低域はあんまり出ませんので、そういった需要の音楽には不向きです。声が聴き取りやすいので、調声とは抜群に相性がイイです。先にもいったようにヘッドフォンは、その目的に応じて使うのが理想的で万能性を求めるものではありません。

最初にいったようにヘッドフォンを使うのはあまり好きではないのですが、これはかなりお薦めです。これを使い出してから、SynthesizerVの調声で細部の音の動きに迷うことが減って作業効率が上がりました。

とにかく声の微細な変化がとてもわかりやすいので、是非使ってみてください!


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